2025/12/6

来年2月11日で91になる祖父が、憲法記念日やなくて紀元節いうてなあとお馴染みの誕生日トークを繰り出したので、ほんまにその日なん?とツッコミ入れたら、数秒停まって、ほんまやほんまや、アンタの云う通りかもしれん。ややこが生まれたから役場に届けてください言付けられた人がええようにしてくれたんかもしれん!とノリで返してきた。
耳遠いからさっきまで、え、なんやて?のディスコミュニケーションやったのに。
こっちではノリツッコミを封じて黙ってるとどんどんいいひとになってきてるのかもしれん。ひとの誕生日疑うくらい意地悪やのになあ。

2025/9/4

台風がきている。
ここらへんにやってきた一つ前の台風は、夏のはじまりだった。はじまりに一つ、おわりかけに一つ。あといくつやってくるか。
台風のたまごという気象用語があるらしい。
海上で発生するそのたまごは、どんなきっかけで生まれるのだろう。
海と空のはざまを、トビウオが跳ねたその小さな力動が、風の流れに乗っかって、ついうっかり渦を描いてしまったか。
それは地球が手綱を握る風。肚に力こめて世の中いっぱいにまくり拡げる風。


林勇気さんがはじめた、世界一小さな映画祭に行ってきた。
記憶と記録にまつわる映像作品と、スライドや幻灯機から投影された「うつるもの」の原初にふれる鑑賞体験。
映像には、はじまりとおわりがある。でも、見ているときは、えいえんだ。
「えーえんとくちからえーえんとくちから永遠解く力を下さい」と歌ったのは笹井宏之さんでしたか。
子どもの作った泥団子みたいにまん丸な言葉は、口の中で舌をころがして作られたのだろう。
世界一小さな映画祭は、小さいけれども魚の小骨みたいにちくっと刺さりもする。
喉の奥のやらかいところでの傷だから、なおさら体の記憶に残る。


新井英夫さんにお話を伺ったとき、癒すってどういうことなんでしょうかね?と尋ねたことがある。
そしたら新井さんは、昔から鬱血したところに鍼をチクっと刺して悪い血を外に流し出しちゃう治療があるんだけど、そんなふうに循環を促す力のことじゃないかな、出たものを受けとめるお皿とセットでね、と。
こないだ新井さんにおそわった野口体操は受け皿みたいな存在なのかもしれない。


ここらへんでは、富士山がわりと普通に見える。
見える日と見えない日があって、見えるとやっぱりいたんだなと思うし、かといって見えなくっても支障はない。
江ノ島の灯台でバイトしてたとき、ある日やたらとスッキリと裾を広げていた富士山を目にしたひとりのお客さんが、「フジサンダー!」と歓喜の声を繰り返しあげたことがあった。
彼の大声は広場に響きわたり、付き添いの人は少しいなしていたけれど、聞いた人がついほころぶほどの純情な、富士山にふさわしい大声だった。彼はみんなの代わりに叫んでくれたのかもしれない。
写真はネパールカレー屋さんでテイクアウトした時の待合室の風景。

2025/3/24

生きてるだけで、その土地と自分が紡ぐ繭のような小宇宙がかたちづくられる。

あのへん、このへん、そこられん、あっちらへん、たぶんあそこ。
その人なりのコスモロジーが下地にあっての歩く嗅覚をまとって、細い糸を吐く。

ちっぽけな喪失も、からだは大袈裟に反応する。
ちゃんと戸惑う。

生き物の鼻息は温い。

2024/12/20

水俣・京都展会場前の広場で、前田愛美さんと路上お話し会をしました。

メキシコ系アメリカ人の詩人グロリア・アンサルデゥーアの『Borderlands/La Frontera』第1章にまつわるお話し会です。

ボーダーランズは、不自然に引かれた境界線上に、曖昧な未知の混血のカルチャーが生まれるところ。あっちにもこっちにも居れなくて、緊張の網の目の中で息をひそめて生きている。切り立った細い細い道。ストリップ。
メキシコ-アメリカ国境の開イタ傷口。
その有刺鉄線の先っちょが、錆び付いた切っ先が、わたしたちのホーム。

未だ解決されてない、認定とはなにか。
なかったことにしないでと、マイクを切らないでと。
水俣展で。
展覧会は22日まで開催。

これまでの読書会で、他の人の言葉選びやニュアンスの読み取りにハッとさせられてきた。少しばかり我が事を忍ばせ合ったりもする、オンラインの密室。

それが、路上に出て、マイクつないで、声出すは、、、宛先が広い、散じてゆく、声。
白人のグリンゴが先住民の土地を奪ってね、、、と、テキストの話をしたら、わっ気づいたら「運動」みたいになった。
わたしたちが隅っこでしていたお話しが、みやこめっせ前を道すがら歩く人へ、バス待ち人へ、タクシー運転手へ、スマホで私たちを撮ってゆく観光客への街宣みたいになった。

演説が力強くって、思わず拍手したくなるときに罹るフィクションの病が何かわかったよ。

前田さんはキッチンマットの土地にいる。
私はモコモコじゅうたんの土地にいる。

今ならわかるよ、
「The Homeland, Aztlán/El otro México」
わたしはこちら側のメキシコ人だよ
わたしはこちら側の女だよ

過去が私を前に押し出して
未来が私から前に伸びてゆく

2024/10/19

クリスチャン・リゾーの「D’après une histoire vraie」を見た。

リゾーがイスタンブールで垣間見た路上ダンスがインスピレーションになっているそう。その遠い踊りの記憶は、この振付家にとって、もはや事実かどうかもわからない、謎としかいいようがないものだったろう。踊りを見ていて、一体どうやって作ったのだろうと感嘆するものがあったが、謎を囲んで、この振付家と10人の男性ダンサーとドラマーから産まれちゃった、ってなのがホントのトコなんじゃないか。
踊りは人に記憶されてゆくものだとつくづく思った。振付家は、その人自身のためでも社会のためでもなく、踊りそのもののために仕事してるんだ。先日のオラ・マチェイェフスカの「ロイフラー・リサーチ」「ボンビックス・モリ」でもそう思った。

埼玉近美の「木下佳通代展」もとてもよかった。若い頃の理知的な作品が、50を過ぎたあたりで一気に変わる。絵そのものとしか言えない抽象画に。展示室でびっくりする。スタイルは変わっても見ているものを一途に提示しつづけると、ここまでゆけるんだ。

「D’après une histoire vraie」の翻訳は、本当にあった話から。ソフィ・カルの初期の本「des histoires vraies」 本当の話は、わたしにとっての芸術の原体験のひとつ。

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