今回の「おもいしワークショップ」は、湊川流域の兵庫区や長田区を街歩きします。
六甲山系を水源にする湊川は、古くから幾度となく氾濫し、流域に水害を起こしてきました。山から海へとまっすぐに流れていたこの川は、治水のために付け替え工事がなされ(明治期)、ある地点で大きく曲げられています。海岸と平行して西へと進み、刈藻川と合流して海に流れ込む。現在「新湊川」と呼ばれるこの新たな川は、天井川として家屋よりも高いところを流れたり、山の中のトンネルを通ったりもしています。
この街歩きでは、流域の歴史を聞いたり、あるテキストを音読したり、また今の都市の地形を身体の感じに置き換えたりしてみます。流れる、分かれる、合わさる、抜ける、止まる、淀む、沁みる、吐くetc… 川に沿ってまた川を巡って歩きながら、見えるものを見、聞こえるものを聞き、そしてできたらこの川の流れとつながっているであろう「どこか」へもアクセスし得たらと思います。
ナビゲート:古川友紀
リサーチ協力:稲津秀樹・富田大介・山﨑達哉
主催:記憶の劇場

おもいしワークショップvol.3 湊川編 目次
湊川公園〜雪御所公園
2019年1月12日朝10時、湊川公園に集合
参加者11名が湊川公園の時計台の下に集まった。持ち物のとして指定した石を皆それぞれが持っている。
湊川公園は、元々湊川が流れていたところに作られた都市型公園(広場)だ。湊川は明治期の大規模な付け替え工事によって元の流路が埋め立てられ、公園や繁華街、道路となった。天井川の名残のある湊川公園から、今回の道行きがはじまる。
湊川の付け替え工事が行われたのは、大まかに言えば大水害と神戸港修築という二つ出来事が起因となった。神戸の街の背後に連なる六甲山系は、花崗岩とそれをおおう真砂土からなっており、地質的に大雨になると山の地盤がゆるみやすい。幾度となく、崖崩れ、山津波、鉄砲水が街に押し寄せてきた。(とくに1938年の阪神大水害では、六甲山系の複数の川が氾濫し神戸の街一帯に大きな被害をもたらした。)また、この付け替え工事は日清戦争、日露戦争の前後にあたる1896年〜1934年にかけて行われている。富国強兵、殖産興業などなどの厳めしい言葉が叫ばれた時期だ。この時、国家事業として大型船が停泊できるくらいの世界規模の港にと、神戸港の修築が行われた。それに伴い、水害で土砂が港に堆積するのを避けるため、湊川の改修工事が行われた。これにより湊川は神戸港の西側に流れ着く流路となり、大きくその姿が変わった。そしてもともと川だったところは埋立地となった。(そこには、川崎造船所が建ち、日本の軍艦を作る拠点となった。)
…というような歴史のあらましを、企画の古川が身振り手振りを交え、湊川になりきりながら説明した。(下は、その時の写真と、参加者の方がその場で描かれたイラスト!)


今回の「おもいしワークショップ」は、ゲストに社会学者の稲津秀樹さん(写真下)をお招きした。移民研究がご専門の稲津さんは、震災以前の幼少期を長田で過ごされ、街を離れてからも足繁く通いながら長田の街の変化を見てこられた。稲津さんには、街歩きで立ち寄る様々な地点で、土地にまつわるお話を震災、水害、戦争、 移民、差別といった多様な観点からお話しいただいた。社会学者としてフィールドワークする姿勢と、調査対象となる他者への想像力を結びながら独自の研究をされている稲津さんの感度の高い語りが、この道行きをより多層的なものへと拡げてくれたように思う。また、企画の事前リサーチに際してもご協力くださり、様々な知見や資料を提供してくださった。

10時45分、湊川公園を出発

いつの間にか公園で40分近くも過ごしていた。ようやく道行きがはじまる。
公園の北側(ここも湊川跡地)は、活気のある商店街がつづいている。戦前は公設市場で、神戸大空襲によって焼け野原となった後には闇市がひらかれていた。今は神戸の台所として、八百屋さん、魚屋さん、漬け物屋さんetc…様々なお店が立ち並んでいる。特にこの日は新春のにぎわいをみせていた。この辺りを歩いていると土地に妙な高低差があることに気が付く。天井川だった湊川の名残。

『細雪』に描かれる阪神大水害
少し北上したところに「せんしんはし」と書かれた橋がある。漢字で書くと「洗心橋」。この橋の向こうに刑務所があったことから、受刑者が娑婆に出るときの心境を橋の名に冠したのだろうか。
洗心橋のたもとで、1938年の阪神大水害の写真を見た。この大水害では、湊川のみならず、芦屋川、住吉川、生田川、都賀川と同じく六甲山系を水源とするすべての川で甚大な被害があった。谷崎潤一郎の小説『細雪』に、阪神大水害を描写したところがあり、そこを古川が朗読した。
……いったいこの辺りは、……阪神間でも高燥な、景色の明るい、散歩に快適な地域なのであるが、それがちょうど揚子江や黄河の大洪水を想像させる風貌に変ってしまっている。そして普通の洪水と違うのは、六甲の山奥から溢れ出した山津波なので、真っ白な波頭を立てた怒濤が飛沫を上げながら後から後からと押し寄せて来つつあって、あたかも全体が沸々と煮えくり返る湯のように見える。たしかにこの波の立ったところは川でなくて海、ーーどす黒く濁った、土用波が寄せる時の泥海である。
……至る所に堆積している土砂の取り片附けだけは、事変のために人手や貨物自動車が不足している折柄で、早急には運びようがなく、炎天の往来を行く人々が皆真っ白に埃を浴びている光景は、往年の大震災後の東京の街が再現したようであった。
谷崎潤一郎『細雪』
この水害の凄まじさを文豪は物語っている。映像や写真などのリアルな視覚資料も貴重だが、小説家の記すフィクションのなかからも、生々しい水害の記憶に触れることができる。谷崎自身はこの水害の時は避難先にいたそうで、後に学校の生徒の作文を参考にしてこの箇所を書いたらしい。*
朗読した『細雪』のテキストは、『湊川を、歩く』という本に記されていたものだ。湊川高校の夜間部の先生をされていた登尾明彦さんが書かれた本だ。湊川の歴史、登尾さんが出会った多様な背景をもつ生徒たちとの日々、震災のこと、土地に残る差別などが、登尾さんを通して多くの人に届く文体で綴られている。テキストを読んでいるのに「語り」を聞いているような感覚になる。
登尾さんの『湊川を、歩く』と稲津さんの複数の論考は、今回の企画を実施するにあたって貴重な資料となった。ある意味、戯曲のような存在であり、「おもいしワークショップ〜湊川編〜」はその上演だったとも言えるかもしれない。

さて、川の流れとは逆に、山の方へ向かって少し歩くと、湊川の源流である石井川と天王川が合流する地点に着いた。階段を降りて川の底を歩くことができる。コンクリートで完璧に護岸されているので「川」なのだけれども、塀に囲われた空間に立っているような感じもする。道を歩く人から見下ろされると、ちょっと取り残されたような気分にもなる。護岸した壁には水位の跡が残り、水位の危険度合いを知らせる警報機が設置されている。

階段にあった絶妙な配置のものたち。

雪御所公園のおじさん
石井川と天王川の合流地点はちょっとした三角州のようになっていて、雪御所公園という公園になっている。御所と名のついているのは、昔、平清盛がこのあたりに邸宅を構えていたからだ。公園内には阪神大水害の巨大な慰霊碑が立っている。
事前リサーチでここを訪れた際、偶然出会ったおじさんと立ち話をした。その時のお話が非常に興味深いものだったので、後に記憶をたどって書き起こした。そのテキストを、参加者のお一人に声に出して読んでもらった。

雪御所公園のおじさんは、現在83歳。満州に生まれ、幼い頃に両親と引き揚げてきた。1938年の阪神大水害の翌年に神戸にやってきてからずっと、この近くに住んでいる。戦時中は神戸大空襲を経験し、終戦後は自動車修理工として造船の川崎重工関連の仕事をしていた。朝鮮特需や高度経済成長の時代には、三日三晩寝ずに働くこともあったほど、本当によく仕事をした。59歳の頃に起きた「こないだの震災」(阪神・淡路大震災)では、知り合いを亡くしたり、家の再建やローンなどで大変な苦労をした。
上記は、実際に読んだテキストの要約だ。この方のライフヒストリーには、水害、戦争、震災といった大きな出来事が、ひと続きの生きた記憶として登場する。
団地・湊川病院〜会下山
団地・湊川病院
雪御所公園から石井川を渡ったところには団地が立ち並ぶ。先ほど洗心橋のたもとで話した刑務所があったというのがこのあたり。グラウンド脇にある遊歩道を歩 いていると、気になる看板が立っていた。健康促進のための看板だが、書きぶりから身体への強制的な指図を感じる気がするのは刑務所の名残…?などと憶測し つつ談笑。われわれも、今日はまだまだ歩きます。

だだっぴろい道と1994年の住宅地図に記された名

それにしても、川に沿って舗装されたこの道はやけに幅が広い。左に湊川、その先に会下山が見え、視界がひらけて広々している反面、なにかが抜けている感じがする。
震災以前の1994年の住宅地図を見ると、この歩道の上には家屋やお店がぎっしりと立ち並んでいたことが分かる。住宅地図には、喫茶店やクリーニング店などの店や住んでいた人の名前が記されている。今は「道」となったところに立って、1994年の地図に記された名前を眺めていると、過去を透かし見ているような気がする。「おもいしワークショップvol.1」では、灘の震災慰霊碑に刻まれた死者の名前を声に出して読み上げた。今回は、このだだっ広い道の上に立って、1994年の地図にのっている人や店の名前を一人ずつ読み上げた。自分で声に出し、また他の人のその声を聞いていると、この場所にいた住人やその人たちの生活が確かにあったことを実感し、私たちは今二重写しの地図のどこにたっているのだろうかと不思議な気分になる。

すべての名前を言い終わった直後、通りがかりの男性に「何されてるんですか?」と話し掛けられた。その方は湊川隧道保存会のメンバーだった。どう見ても街歩きの集団だったので声を掛けたそうだが、これから隧道へ行くという絶妙なタイミングだった。立ち話がいつの間にか湊川隧道の建築にまつわるミニ講座に。お話の中で、トンネル内部の構造を「クジラのお腹の中のよう」と言い表されていたのがとても印象的だった。
湊川隧道の呑口で、水を呑む
湊川隧道に到着。下の写真で、手前のものは現在の隧道(川が通っている)、奥が古い隧道。

隧道の前に立つと、奥から流れてくるひんやりとした空気とコンクリートの匂いを感じる。隧道の入口はまるでお山があんぐりと口を開けて水を呑み込む姿のようだ。隧道の入口、出口のことを建築用語で「呑口」「吐口」と言う。なるほど、トンネルを通行するもの(川や車や列車などの動くもの)を主体にするとそれは入口、出口だが、山を主体にすると、確かに呑口、吐口だ。水を呑み込み、そして吐く。そんなことを考えていると、会下山も一つの生命体なのだと思えてくる。この感覚を体感してみたいと思い、「隧道の呑口で水を呑む」ということをした。 2Lのペットボトルに入った水(古川の地元にある水無瀬離宮の湧き水)を皆で回し呑む。トライしたい作法としては、呑む人は上を向いてあんぐりと口を開け、他の人がその人の口の中にペットボトルの水を流し込むという呑み方。ペットボトルから注がれる水が、口のなかにすっぽりと流れ込んでゆき、コップでは味わえない感覚がある。やってみた人からは、水が口の中にいつ流れ込むのか分からないのと、水量を自分でコントロールできないというスリルがあったとの感想。山もこうして川の水を受け流しているのかもしれない。この時の写真は残っていない。
ここ、記憶の布石ー会下山の銅像と神戸電鉄
さて、呑口で湊川をいったん見送り、会下山へと歩みを進める。山の階段を少し登ると、その脇に小さな広場のような空間がある。そこにはツルハシを振り上げる男の銅像が建っており、その台座には「神戸電鐵敷設工事 朝鮮人労働者の像」と書かれている。明治期に行われた神戸電鉄敷設工事で厳しい肉体労働を課された朝鮮人労働者の姿をあらわしたものだ。新開地から有馬や三木方面へと鉄道を通した際、六甲山系のトンネルの掘削をはじめとする危険な作業を多くの朝鮮人労働者が担った。なかには落盤事故などによって命を落とした者もいる。台座の裏面には亡くなった13名の方の名前と事故現場が記されている。行き交う神戸電鉄がよく見えるこの場所に、彼らの記憶を刻もうと、有志の者たちによって像が建てられた。今も年に一度、追悼の集いが行われているそうだ。

ここで、この場所にまつわるゲームのようなレクリエーションのようなことをやってみた。なんとなくマダン(ハングルで「広場」の意味)で行われる集いや楽団のようなことをイメージしながら、次のような遊びを創作した。
皆が持ってきた石のなかから二つを選ぶ。一人がその石を持って、石どうしを打ち鳴らして拍子を取る。石拍子の間に「ここ」と言う。そのリズムを続ける。
他の人たちは、「ここ」と言われたときに、思いついた助詞を付けて言う。合の手を入れる感じ。助詞を思いついた人は、誰でも好きなタイミングで言ってよい。
カン、カン、カンと石が一定のリズムを刻むなか、「ここに……ここは…ここで…ここから………ここだけ…」などなど、しばしゲームのようなまじないのような不思議な時間が流れた。「…」の先につづく言葉はないが、様々な動詞や形容詞などを想像することは可能だ。「いる」「見る」「生きる」「暑い」etc…。こうした言葉遊びから、この場所の記憶が浮き立ってくるのではないかと思ってやってみた。表現としてやったわけではないのだが、このワークはややいきなり感があったかもしれない。思ったよりも短めに終わった。拍子の速度が少し早かったのかもしれない。ルールも再考して、またじっくりやってみたいと思う。後日、石のカチッ、カチッという音が、岩盤にツルハシを打ち付ける音のようだったという感想をもらった。
会下山
頂上の公園からは、瀬戸内海と六甲山系が見渡せる。風が勢いよく吹いている。空がさらに高く感じる。楠木正成や海員の霊を弔う立派な石碑が建つ傍らで、輪投げ愛好家のおじさんたちが練習に勤しんでいた。他にも街歩きの集団のレクチャーがあったりと、意外にも山の頂上には様々な人たちが集っていた。

会下山から息を吐くー声と息のあいだ
山を下りる際、階段の踊り場から吐口から流れ出る湊川が見える。その先にあるのが新長田の街並。私たちがこれから向かうところだ。街に向かって、息を吐いてみる。「ハーッ」という呼吸音から声帯が震えて「はーっ」という発声になったり、また呼吸音に戻ったり、と声になるかならないかくらいのところを行き来する。聞こえるか聞こえないかの息を吐く。そばではおばさんが(日課なのだろうか)階段を上り下りしている。私たちはしばらく佇んで、想像の川の流れに少し先の自分の時間をのせて、息を吸ったり吐いたりしている。川は流れ、山は動かない。けれども(山となった私たちは)動かずともここからどこかへとつながっていけるはずだ。それが見えない存在であったとしても。微動だにせず立ち尽くす自身の足裏の感触が、それを確かなものにする。
会下山を越えて、さあ、これから湊川の新たな相貌に出会う。

番町〜新湊川
湊川隧道 吐口から
山を越え、何か節目というか境界を越えたような気がする。そして、そろそろお腹も減ってくる。

呑口で皆で呑んだペットボトルの残りの水を、吐口付近で川に注いだ。ペットボトルの水が湊川と合流する。吐き出された瞬間、異なる水脈のものどうしが混ざる。

雪御所公園の近くでも川の底におりたが、ここの護岸壁はさらに高い。湊川はこの先もしばらく海岸線と平行に流れる。地形の高低差ゆえ、大雨で川の水が溢れると、左岸にある番町地区が浸水する。付け替え工事によって水害を免れたところもあれば、それを被るところもある。川には水位を知らせる警報機が複数設置されていた。ここは市営住宅や家屋に並んで日本語学校やアジア系のお店があった。外国からやって来た人たち、技能実習生や留学生もこの地域の新たな住人となっているのかもしれない。『湊川を、歩く』にも出てくるが、在日コリアンの人たちも古くからここに住んでいた。
震災の時、この辺りは木造の長屋が密集していたこともあり、家屋倒壊の被害が多かった。24年経った今も、フェンスに囲まれた空き地が大なり小なり点在したままになっている。駅からほど近くアクセスに恵まれた好立地なのだが。
夜間中学校跡地にも訪れた。校門と壁面に描かれたイラストしか今は残っていないが、ここに様々な背景を持つ生徒たちが通ったのだろう。

お昼休憩 ニュージャンボ
13時半過ぎ、喫茶店ニュージャンボにてお昼休憩をとった。ここはランチメニューが豊富で、4種類以上のおかずが入ったランチセットが650円。総勢13名の団体客にもスピーディーな対応。長田の懐の深さを感じる。
昼食中、参加者のうちの一人から興味深い話を聞いた。その方は東灘の高校に通われていたそうで、その高校ではマラソンで住吉川沿いを走る習わしがあったそうだ。そのことを通称「清流」と呼んだという。…誰が名付けたのか、その学校の先生、生徒たちに受け継がれてきたのだろうか。清々しいネーミングなのに、その実、忍耐や根気を強いられるという、やや皮肉めいたものを感じるのは気のせいだろうか。または放流された稚魚が大人になって還ってくる、というようなイメージなのか…妄想が広がる。川の記憶から呼び起こされたエピソードだった。
菅原市場跡で「寅さん」を見る
小一時間ほど休憩し、再出発。御蔵公園を通って、阪神・淡路大震災のモニュメントや遺構を見た。それから、震災による火災で焼失した菅原市場の跡地を訪れた。ここは映画『男はつらいよ 寅次郎紅の花』のラストシーンの舞台となった場所だ。震災後に長田区の住民などから組織された「寅さんを迎える会」の要望を叶えようと、制作サイドは元々の脚本の冒頭とラストシーンに神戸の街のシーンを付け加えたのだ。1995年10月に菅原市場跡で撮影が行われている。
菅原市場跡は、今は公園になっている。ここで、皆で映画のラストシーンの台本を読み、その後、そのシーンの映像を見た。
台本と映画を見比べると、台本にない人物や風景が映画の中に描かれていることがわかる。
稲津さんは「被災地はどこへ消えた?ーー「ポスト震災二〇年」における震災映画の想像力」という論考で、この映画に描かれている「被災地」像と「被災者」像について言及されている。
ラストシーンでは、久しぶりに被災地を訪れた寅さんと菅原市場の店主たちとの次のようなやりとりがある。精肉店の会長さんの「わしらのこと忘れんと」というセリフから「被災者」による語りがなされる。また、パン屋のおかみさんは「みんな待ってるわ。寅さん。」といって寅さんの背中を押し、カメラはその先にいる「みんな」の姿ーーマダンの踊りを繰り広げている在日コリアンの若者たち、そしてその見物人のなかにいる車椅子に乗った男性など、「みんな」のうちに多様な被災者の姿が描かれている。この映画のワンシーンから、「被災者」という言葉のなかには、忘却/不可視化される多様な人たちがいることを気付かせてくれる。
このシーンの最終カットは、新年の祝いが行われる菅原市場からカメラがどんどん引いていき、瓦礫や空き地、プレハブの家などが立ち並ぶ街と六甲山を俯瞰したところで終わる。カメラが引きになって行く程に、マダンの踊りの渦が加速して力を増し、ついに飽和して緩やかになるのも美しい。踊り手は「長田マダン」の農楽演奏チームで、ロケ日の5日前に出演が決まったそうだ。
そんな、1995年の神戸を記録する映像を見ていると、公園で遊んでいた小学生たちに「何してんの?」と声を掛けられた。休日の公園は子供たちや親子連れが集っていた。菅原公園を後にして、再び街を歩く。最後のシーンは、あのビルの屋上にカメラを置いたのかな、などと喋りながら。
湊川に再会する
さて、しばらく湊川から距離を置いたところを歩いていたが、再び湊川に出会う。湊川は、ここより少し北にある長田神社付近で、苅藻川と合流しているので、正確にいえばこれは新湊川だ。
新湊川に隣接する長田南小学校のグラウンドの片隅には一つの石碑が建っている。石碑の正面はグラウンド側を向いているので、歩道からは何の石碑か分からない。この石碑は、戦後の一時期、ここに朝鮮人学校があったことを記したものだ。かつて、小学校の校舎内に在日コリアンの子どもたちにに民族教育をする朝鮮人学校があったのだ。その記録を残すために石碑が建てられた。私たちは歩道のフェンス越しに、石碑の後ろ姿を見た。
新長田駅方面に向かって歩く途中、西代(山の方)の方面に目を向けると阪神高速の換気口が見える。地下を走る阪神高速は、都市の地中を走る巨大な管でもある。あの換気口はいわば阪神高速の「吐口」なのかもしれない。

新長田〜湊川河口
二つの神戸の壁
電車の走る音が聞こえてきたので、ようやくJR神戸線 新長田駅の近くまでやってきたのだろう。
震災によって、駅周辺のエリアは家屋の倒壊や火災が起こり、広範囲にわたって瓦礫の山となった。その後、区画整理がなされ街の姿は大きく変わった。今歩いている道も、ゆとりのある道幅や人口の小川などから防火対策の一環で作られたものだということが分かる。ふと視線を上げると、地震に耐えたのだろう古い低層階ビルにいくつかの看板が出ている。ケミカルシューズの下請け工場やコリアン系のお店が入っているようだ。
JRの高架下に差し掛かった時、やたらと味のある壁が目に留まる。壁に、おびただしい数の貼紙の跡があるのだ。貼紙には、例えば二週間前に訪れた際のものには、こんな文言が書かれていた。
「急募 製品仕上げ 2名 貼り工さん 2名 090-####-#### 須磨区◯◯町### シューズ◯◯」
ケミカルシューズ関連の求人募集の壁。この日は、破れてしまった貼紙だけだったが、来る度に変化があるということは、この壁がまだプラットホームとしてちゃんと生きているのだろう。今では、求人情報はほとんどがネット検索か情報誌になるけれど、この求人募集の壁には、ここに足を運ぶことでアクセスできる情報があるのだ。逆に言えば、ここでしか情報を得れない人たちもいるだろう。薄暗い高架下の壁の上には、防犯用の照明が昼も夜も光っていた。

高架を抜けるてJR線の南側エリアに入った。神戸市は震災以前から新長田を神戸の副都心にしようとする計画を立てていた。戦争の被災を免れた木造家屋や商店、工場がひしめき合っていたところを、クリアランスしようとするものだ。復興計画は、そうした元々の都市計画をなぞるようにして行われた。「アスタ」と名の付いた建物が新長田にはたくさんあるが、それらは震災後の復興都市計画で作られたマンションや商業施設だ。
ちなみに、震災前から神戸市が計画していた都市計画は、新長田駅南地区の他に灘区の六甲道駅南地区周辺もその対象だった。六甲道駅南地区も震災を契機として復興計画が遂行されたところで、現在はマンションなどの住居エリアや商業施設などが建ち並んでいる。(奇しくも「おもいしワークショップvol.1」では灘のこの周辺を歩いた。)
さて、そうこうしながら歩いていると、神戸コリア教育文化センターに併設しているカフェナドゥリの前までやってきた。ナドゥリには在日コリアンと長田の歴史にまつわる資料があるので、暫し立ち寄らせていただいた。時間がなかったのでゆっくりできないかったのが残念だが、このカフェでは韓国のお茶やお菓子、ご飯を味わうことができる。ナドゥリのあるビルも震災復興の一環で建った建物だ。通りに面した部分は商用スペースとしていくつかの店が入っている。ここの2階には神戸奄美会館が入っている。
商用スペースの奥が住居スペース(マンション)になっている。マンションへ方へ通じる細い道の片側に「神戸の壁」のモニュメントが建っている。昭和初期、このあたりに公設市場があったのだが、その時に作られた市場の防火壁が、神戸大空襲そして阪神・淡路大震災に耐えて残った。この防火壁を、復興の象徴として「神戸の壁」の一部がモニュメントが設置されている。ちなみに、「神戸の壁」は淡路島の北淡震災記念公園内に移設され、現在はそこに建っている。ここにあるのは、壁というより正確には崩落した壁の一部だ。新長田のアスタの地下道には、横たわった状態の神戸の壁の一部がある。
ここで、震災当時の長田の街を描いた小田実さんの小説『深い音』から、「瓦礫の墓」という箇所を皆で順番に朗読した。あと数日で24年目の1月17日を迎えるんだね、と誰かがぽつりと言った。

その後も、どんどん歩きます。

見えないけれども繋がっている
さて、再び湊川に沿って歩く。神戸の街を東西に走り抜ける国道2号線を渡る。頭上では阪神高速3号線と31号線が交叉している。湊川ジャンクションだ。
対岸の真野地区へ行こうと、湊川に架かる小さな橋を渡った。歩行者用のとても細い橋だ。川がエリアとエリアの境界線になるならば、橋が架かるポイントは人の必然から定められたものなのだろう。渡った先には二つの学校があるので、この細い橋は通学路から逸れた近道のような気配がどことなくする。
真野地区は、以前は産業ゴムや合成樹脂の工場、靴工場が密集していた地域だが、現在はほとんどが住宅地になっている。そこに真野小学校と西神戸朝鮮初等学校という二つの小学校が斜交いに立っている。稲津さんは、以前、西神戸朝鮮初等学校にフィールドワークで訪れた際、ここの土地の地盤沈下により、校舎の地下には常に地下水が漏れ続けていることをたまたま知る。校長先生曰く、地下水は湊川の水位と連動しているらしい。番町地区で私たちは、地形の高低差ゆえにそこがそこが水害の危機に晒されることを、湊川を通して目の当たりにした。ここでは、地下水という見えない水脈によって危機に晒されている。その危機を回避したり、自由に動くこともできない。今回の街歩きを通して、見えるものと見えないものを繋ぐ感覚や想像力にアクセスしたいと思っていた。会下山で、私たちは街に向かって声になるかならないかの息を吐いた。その場を動かずにただ立ち尽くしたまま吐いたあの息のように、声にならなくともどこかに繋がっている。
湊川河口の石のたまり場
今度は六間道商店街の方へ行くために、また橋を渡る。橋の欄干越しに、川の水面に視線をやると、流れは殆どなく静止しているかのように見えた。もう海はすぐそこだ。川の水と海の水はどのように混じり合っているのだろう。

17時30分、陽が落ちて急に辺りが暗くなってきた頃、ついに湊川河口に着いた。堤防の先に灯台が見える。先ほどまで下町感があったが、気づけば工業地帯に入っていた。

河口の西側に長田港があって、そこには駒ケ林という古くからある漁村集落がある。昔は左義長の祭りなどが盛んに行われていたそうだ。そこに、大小数多のお地蔵さんたちがひっそりと佇む小屋がある。どのお地蔵さんにも、赤い前掛けが丁寧に掛けられ、湯呑みにはお茶が淹れられている。こうしてお地蔵さんを見守る誰かがいるのだから、ここは特別な場所なのだろう。「おいしさま」と呼びたくなる。(ちなみに、お地蔵さんの数が増え続けているとかいう話も…)
由来が書かれた札は劣化して読めなくなっていたので、このお地蔵さんたちがどこからやってきて、なぜここに辿り着いたのかは謎だ。海流にのって流れ着いた漂流物のように、お地蔵さんたちはそれから先はどこにも行けずに留まりつづけているのかもしれない。この小屋の中の好きなところに、今日の道行を共にした自分の石を、置いてみた。

最終地点の「おいしさま」で、最後に詩の朗読をして、長い道行き締めくくることにした。安水稔和さんの詩集『地名抄』に掲載されていた「神戸 三篇」を朗読した。三つの短編詩は、それぞれ「三宮」は阪神大水害(1938年7月5日)、「須磨」は神戸大空襲(1945年6月5日)、「長田」は阪神・淡路大震災(1995年1月17日)を扱っている。この詩人はおそらく雪見御所で出会ったおじさんと同世代であろう。三つの惨禍を平易な言葉で結晶化させた詩は、この長い道行きの最後にふさわしいもののように感じた。

解散、そして
「おいしさま」に置いた自分の石を、再び手にとって、今回のワークショップは終了した。最後に、今回のルートを手書きした地図を皆に配布した。改めて今日歩いた道のりを地図で追う。初めて歩く土地では、近視的に様々なものを見ていて、自分が今どこにいるのか分からなくなることがある。ナビゲートのもとで歩いたならば、なおさらそうだったかと思う。地図をみて鳥瞰すると、街と身体がリンクしはじめることもあるかと思う。まじまじと地図を眺めた。そして、解散。
駅に向かって皆で歩くうち、ぽつぽつと人がいなくなる。最終的に残った人たちと一緒にアスタの地下道に横たえられた「神戸の壁」に行った。お酒の空き缶が放置されていて、どこか取り残されたような空気が漂っている気がする。ここもまたある種のたまり場ではあるが、「おいしさま」とは趣が異なるようだった。地下道を通り過ぎる人たち(移動する人たち)の「流れ」の端、街の洞穴のようなこの場所にある神戸の壁に腰を下ろし、皆でしばし体を休めた。(現在、この場所は「リニューアル」され、街の歴史や震災の展示空間になった。神戸の壁もベンチではなく展示物になっている。)

その後は、カフェ ナドゥリへ戻り、各々食べたり飲んだりしながら休憩した。8時間も歩き続けていた。腰を据えてみたところで、今日一日を「振り返る」にも、途方もない感じがあった。感想をぽつぽつと言い合った。
写真:石井靖彦・富田大介・古川友紀